記事「数オリは有益か?」の続編にあたる,エヴァン・チェン氏による記事です. まずは前編をご覧ください. 今回の論点は「数オリから何を学ぶか?」です.ここで議論されているのは,具体的な数学にまつわる側面というよりは,むしろ精神論的な側面です.特に,もし貴方が満足な結果を残せないまま数オリを去ることになり,未練を多く残している場合は,この文章は貴方に大いなる洞察を与えてくれるかもしれません.
掲載にあたって,大きな意訳や改変が加わっている可能性があります.もし正確な内容を知りたければ,原文を読むのがもっとも正確でしょう.また,これは必ずしも制作陣の立場を反映しているものとは限らないことに留意してください.
なお,この記事の翻訳・掲載にあたっては,エヴァン・チェン氏による許可を得ています.
Lessons from Math Olympiads
以前の投稿で,数オリは研究活動との関連性で判断されるべきではないとの指摘をしました.その際,なぜ数オリが学生にとって貴重な経験になると思うのかを説明していませんでしたので,ここでお詫びしたいと思います.
1. 大まかな論点について
私が高校生だったころ,高校で教えられるよりも(遥かに)面白い数学を勉強する機会を促すことが,数オリの主たる目的だと考えていました.これは確かに今でも目的の一つではあり,一部の人にとっては根本的なものかもしれませんが,私はもはやこれが根本的な利益であるとは考えていません.
私の現在の信条は,数オリには大きく分けて二つのメリットがあるということです.
- 似通った興味を持つ才能ある学生のための,社会的ネットワークを構築すること.
- 才能ある学生が知的に成長できるような,やりがいのある経験の場を提供すること.
ここで断っておきますが,私はこれらが数オリの他ならぬ目的であると主張しているわけではありません.確かに,数学とは美しい対象であり,オリンピアンらをこの分野へ導くことは,もちろん素晴らしいことです(特に私にとっては人生を変えるものでした).しかし,以前にも申し上げたように,最終的に数学者にならない数オリ出身者も少なからずいるわけです.そして私は,そうした人たちも数オリの経験から多くのことを得ていると,とにかく訴えていきたいのです.
2. 社会的な経験について
Eメール,Facebook,AoPSといった接続の場が豊富にある今,数オリコミュニティはこれまで以上に大きく,強固なものになっています.コンテストの季節に何度か会うに留まらず,一年を通じて繋がりを保つことが可能になりました.全国の出場者がグループチャットで数学の問題について話したり,愉快な写真やジョークを共有したりしています.多くの点において,数オリのコミュニティに参加することで得られるものは,一流大学の同級生内でのコミュニティによるものと似ています.
競技は出場者にとって不健全なものだという懸念が世の中にはいくらかありますが,それに対する弁明をここでしましょう.
私は,数オリのコミュニティは競争的というよりはむしろ協調的だと思っています.皆が他人より良い成績を取ることばかりを目論んでいる世界線を想像することだって可能です.それは世界を悪いものにするでしょう.しかし,少なからずそうした偏見は存在するようなのです.別にあなたの隣にいる人の点数がどうであろうとどうでも良いはずです(し,そのことを考えても何のためにもなりません).
もっと露骨に言ってしまえば,コンテストでは満点を取ってしまえば良いのです.
こうした文化線が存在するから,優秀な学生が集い,お互いに敵対するのではなく,皆で同じ方向へ向かって努力している.だからこそ,自立したコミュニティが成立して,出場者同士が本当に仲良くなれるのです.
本当に優秀なコンテスタントは,USAMOやIMOといった本当に重要なものを除けば,コンテストの結果などさほど気にしていないものだと思っています.「Harvard-MIT Math Tournament はアメリカの数オリのコミュニティの同窓会と化している」というのは良くある冗談ですが,個人的には実際に毎年そうなっているのを見届けています.
3. 知的に成長することについて
何かしら深いことについて思念したり,取り組んだりすることに多くの時間を費やせば,その経験から学び,成長することが出来るというのが私のスタンスです.チェスを例に挙げてみましょう.チェスは数学よりも「実生活での応用」から遠いことは確かですが,高レート者に対して,彼らがチェスに捧げた時間は無駄だったとみなす人は少ないと思います.
数オリも例外ではないでしょう.実際には,数オリの深淵さと困難さは,恐らくそれを際立てて好例にしています.
私はここから,多くの具体例でこの節を埋めるつもりです.もちろん,これらが網羅的であるとは言いません.
初めに,誰もが話題に挙げ,多かれ少なかれ同意するものです.
- 思考法について学ぶこと.まあ,それが数オリという営みそのものですからね.
- 熱心に取り組み,諦めない姿勢を身につけること.コンテストとは難しいものであり,運だけで成功できるようなものではありません.たくさんの訓練を経る必要があります.
- 上と対になることですが,適度に諦める姿勢を身につけること.時には問題が自分にとって難しすぎて,どれだけの時間を費やしても到底解けないこともあるので,それによる損失を抑えねばなりません.こうしたバランス感覚は,学校教育でありがちな「決して諦めない」ことをモットーとする道徳形成からではなく,自身の経験から最も良く学べることです.
- しかし同時に,謙虚になったり,他人に教えを乞う姿勢を身につけること.これは多くの若き学生にとって非常に困難なことです.
- 忍耐強くなること.これは問題を解くことに限らず,全ての過程を通じてです.普通は一朝一夕で劇的に改善するものではありません.
次に,私は信じているものの,あまり耳にすることの無いものです.
- 自立すること.なぜなら,高校の数学の先生は数オリであなたの助けにならない可能性が高いからです.最上位レベルでの訓練は,最近ではほとんどの場合,多かれ少なかれ個人の範疇で行われています.自ら訓練をするという動機と,自らそれをコントロールする能力(例えば何に取り組むべきかを判断する能力)を持ち合わせることは,それ自体がかけがえのないスキルだと思います(私は時折,指導することで学生からこのスキルを実践する機会を奪ってしまうのではないかと,少し残念に思うことがあります.これは代償です).
- きちんと物事に取り組めるようになること.これは両親にそうしろと言われるからだけではなく,IMOの1番級での思わぬ失点に繋がるかもしれないからです.数オリの問題はただでさえ難しいのですから,自身のだらしなさでそれをもっと難しくしたい人はいないでしょう.
- 自身の思考を良く整理し,書き起こせるようになること.複雑な部類の問題は,複数の補題やアイディアを組み合わせないと解けないことでしょう.それを実現するには,こうした多くのフェーズを一つの首尾一貫した議論にまとめ上げるスキルが必要です.私が問題を解くときには,答案を綺麗に書きあげる時間を必ず取っています.なぜなら,ほとんど例外なくそうした過程で,解答をより短くしたり,よりエレガントにしたり,そうでなくてもより自然なものに出来るからです(自分の解法の誤りに気付くことも多々あります).したがって,こうした書き起こしの過程は,自身の内なる数学を異なった手段で表現するに留まらず,その数学自体を変化させるものであるようなのです.
- 学習法について考えること.例えば,AoPSのフォーラムは良く「何をすれば良いのか?」といったタイプの質問で埋め尽くされています.多くの古参ユーザーはこうした質問を鬱陶しいと思っているでしょうが,私は望ましいことだと思っています.何が人を向上させたり,良い学習に繋がるか考えることに時間を費やすことが出来るというのは,頭を使わず次から次へと本を読むなんかよりもよほど,成長の糧になると思います.
確かに,私が上で言及した部類の質問の多くは,「何を読んだら良いですか?」であったり「知っておくべきことを網羅的に教えてください」であったり,具体的な方向性の示されていないものです.しかしこうした質問は,数オリに挑もうとする人たちの最初の一歩なので,避けられないことだと思います.初めてのコンテストでは大概は失敗するものですが,学習を始める段階でも同様に,5年後に見ると恥ずかしくなるような質問をしてしまうこともあるでしょう.そうした若いユーザーが年を経て賢くなっていく中で,思考が成熟していくことを期待しています.そのためにも,最初の一歩を踏み出すにあたってフラフラしている人を見たところで,私は気になりません. - 自分の理解,特に基本的な事項に対して,正直になること.熟練者を見ていると,Brianchonの定理や n-1 equal value principle といった高度なテクニックを用いて問題を解くところをしばしば目の当たりにして,自分もこうした技法のステートメントさえ覚えれば運用できるのではないかと思いたくなるものです.しかし,こうしたテクニックが「高度」であるのには当然ながら理由があるわけで,熟練して基礎がちゃんとしていなければロクに使いこなせないからです.
魅力的な物事に目を奪われず,辛抱強く基礎を身につけていくことは,私もコンテスタント人生で苦しんだことです.例えば2011年のUSAJMOでは,良く訓練された人には何でもないものの,不等式について何も知らなかったり有名不等式をまとめ上げることに終始している人にとってはほとんど不可能な部類の,このような問題が出題されました.私は後者のカテゴリーに属していて,多変数でのJensenの不等式を用いて殴ろうとしました.自分に何が足りないのか本当に理解できたのは,大人になってからでした. - 上と対になることですが,一旦何かを完全にマスターし始めると,理解の深さの違いが何をもたらすかがわかるようになり,何かをマスターするためにはどれだけの労力が必要なのかを理解できるようになります.
- 十分に定義されていない物事について,考えられるようになること.数学はその厳密さで名高い分野ですから,これはしばしば人々を驚かせますが,私はこれもコンテストで鍛えられるスキルだと思っています.
非常に簡単な例として「いつ確率論的手法を用いるべきか」という質問があります.確かに,存在問題に適していることはわかっていますが,いつ機能するかと予想されれるかについて,それ以上のことは言えないでしょうか?まあ,一つの(唯一ではありません)ヒューリスティックな考えは,極論「サルがそれを見つけられれば」といった,ランダムに選択された対象が「機能するはずだ」というものです.しかし,明らかにこうした考えは,100%の確率で作動することを保証する形式的な定義に従うはずがないですし,こうした非形式的な考えが誤謬を導く文脈はいくらでもあります.これは曖昧で漠然とした概念の例にすぎませんが,確率論的手法を十分に理解するためには必要なことです.
もっと一般的な例もあります.(幾何の)問題が「射影的」に感じられるのは,どのような場合でしょうか?私からその規則は教えられません.たくさんの例を通じて,自ら直感を養うしかないのです.同様に,問題が「rigid」に感じられるのは,どのような場合でしょうか?答えは同じです.ある問題のどの部分が自然で,どの部分が恣意的なのか,どうやって見分けるのでしょうか?解答の糸口が何ら得られないときにどうしますか?進展が得られているかどう判断しますか?上手く言語化できないとしても,こうした質問に対する部分的な答えを見つけ出そうとすることは,誰もが重要だと理解する「神的な直感」を養う長い過程に繋がるでしょう.
この時点ではある意味で「哲学」の勉強をしていると言っても無理はないかもしれませんし,まさにそのつもりです.私が指導をするときには,なぜある物事が正しいのかを論点にすることが多いです.そうしたアイディアを教えるのはそれが必要だからです.それを理解していないと,解ける問題は少なくなってしまうでしょう.
4. もし上手く行かなくても,その方が自分のためになると思う
しかし,数オリの真に驚くべき特徴は,ほとんどの参加者は成功できないということだと思います.学校では努力すれば成功すると誰もが説きます.USAMOは,その素晴らしい反例です.(※たとえば入賞者が約20名で不定のJMOなどとは異なり)毎年のUSAMOでは12人きっかりの成功者がいます.しかし,USAMOでの成功を願って一生懸命に努力している人は,毎年12人よりも遥かに多いと断言できます.これを虚しいことだと思う人もいますが,私は望ましいことだと思っています.
一つの逸話があります.2015年9月のこと,フェン・ズーミン(※アメリカの数オリ界における主要な運営メンバーの一人.日本では精選シリーズの著者の一人として知られる)の講演が聞きたかった私はMath Prize for Girlsの保護者会に紛れ込みました(講演の一部始終は現在 YouTube で見ることができます).講演には私が気に入った部分がたくさんありましたが,その中でも特に印象的だったのは,彼が優秀な学生らに対して述べたというこの言葉でした.
熱心に取り組んでほしいけれど,もし上手く行かなくても,もし失敗しても,その方が自分のためになると本気で思うよ.
初めて聞いたとき私は頭を悩ませましたが,今思えば納得できます.私が主張したいのは,数オリから得られる利益とは,4月下旬にUSAMOで何問かの問題を解けるようになることではなく,そのための1年間の訓練に基づくものだということです.残りの363日が同じように流れたとして,USAMOでの最終的な結果だけが変化した場合,成功と失敗のどちらが人としての成長をより助けるでしょうか?
だからこそ,最終的な結果にかかわらず,そこまでの道のり全体の真価を認識することが,数オリからの最終的な教訓だと思うのです.