「数オリは有益か?」― この種の議論は止むことがありません.数オリとある程度の付き合いがある人であれば,各々なりにこの疑問に対する一定のスタンスを固めていることも多いでしょうが,それでも迷いが生じることもあるでしょう. ここでは,こうした問題に対するエヴァン・チェン氏による意見を紹介します.
(もともと掲載していたテレンス・タオ氏の記事は,こちらに移動しました.あわせてご覧ください)
掲載にあたって,大きな意訳や改変が加わっている可能性があります.もし正確な内容を知りたければ,原文を読むのがもっとも正確でしょう.また,これは必ずしも制作陣の立場を反映しているものとは限らないことに留意してください.
なお,この記事の翻訳・掲載にあたっては,エヴァン・チェン氏による許可を得ています.
Against the “Research vs. Olympiads” Mantra
数オリに関連して,しばしば耳にする「呪文」があります.それは「数オリは数学の研究活動とは大きく異なる」というものです.これ自体は真です.しかし私は,人々がそれを言うのをやめてくれることを願っています.
私はこの「呪文」を聞くたびに,何かが間違っていると感じてきました.しかし,2015年の7月まで,その理由が全く分からなかったのです.とある掲示板で,アレン・リュー(※アメリカ代表としてIMOで3枚の金メダルを獲得.特に香港大会では満点を獲得した)がコンテストでどのように優れた成績を収めていたかについて,(馬鹿げた)議論がなされていました.そこで誰かが言いました.
彼に解けない問題ってなんだろうね?
あえて言っておくけど,それに対する答えは「尋ねる価値のある問題のほとんど」だ.2年後にどうなっているか見てみよう.その時点では答えはほぼ確実に変わっているだろうけど,しかしとにかく研究は数オリではない.
この発言は,私に強い印象を残しました.
卓球 vs. テニス
次のような思考実験をしてみましょう.サラは世界クラスの卓球選手です.ファンは皆揃って彼女の抜きん出た能力を褒め称えますが,ある人がこう言いました.
まあ,卓球はテニスではないからね.
誰もが「だから何?」と言うでしょう.卓球とテニスは関係ないのです.おそらくサラはテニスでも平均より優れてはいるでしょうが,いずれにせよ彼女がテニスでも世界レベルの選手であるのを期待する道理はありません.
しかし私たちは,数オリと研究との間で全く同じことをしてしまっているのです.仮に「呪文」が文字通り真実であったとしても,それは暗黙のうちに,「コンテストが得意で研究が得意ではないことには,何かしら問題がある」というメッセージを送っていることになります.
では,何が間違っているのか?この疑問を解消するには,まず「数学とは何か?」という質問に答えねばなりません.
この議論には罠があります.そして,それを乗り越えるには,「数学」という言葉を使うことをタブーにせねなりません.というのも,「数学」という言葉は,次のいずれをも同時に指すことができるのです.
- USAMOやIMOのようなコンテストのためのトレーニング
- 学部や大学院での代数や解析などの知識の習得
- 開かれた問題や予想に取り組むこと(要するに「研究」)
ここに罠があります.仮に,研究に対して単なる「数学」という言葉を与えるとして,「数学オリンピックは数学に関係している必要がある」という主張は無害なように思えます.しかし「数学」という言葉をタブーにして,「コンテストは研究に関連している必要がある」とすると,途端に何かがおかしいと感じられるでしょう.つまり,「数学オリンピック」は,そのネーミングゆえに(研究活動としての)「数学」に従属しているように感じられるのです.
コンテストと研究が別物であることには誰もが同意するでしょうが,それだけでは「コンテストは役に立たない」ということにはなりません.卓球が「ping-pong」のほかに「table tennis」という別名を有しているからといって,それは卓球のトップ選手がテニスのトップ選手よりも何となく劣っているという意味にはなりません.
多くの生徒にとって数オリは,将来の研究活動とは無関係に,多くの良い影響を与えていると思います.数オリは中高生に何か面白いことに取り組む機会を与えてくれるし,IMOのようなコンテストのためのトレーニングは人生に貴重な教訓を与えてくれるでしょう.数オリで得られる仲間との関係もまた素晴らしいもので,一流大学で得られるそれによく似ています(そして場合によっては,多かれ少なかれ同じ人たちです).そして,数オリで得られる問題解決能力は,人生の他の場面でも文句なしに役立ちます.したがって私は,数オリの最大の利点は実は数学とはあまり関係がないとも良く言っているのです.加えて,私自身の好みの問題として,コンテストの問題はそれ自体が面白くて美しいものだと思います.
「正しくて徳のある道」
これは慣習の問題だと思います.
かつて数オリ出身者は,二つのグループに分類されていました.数学の研究に進み,それを何となく「正しくて徳のある道」であるとみなすか,ソフトウェア・金融・応用数学などに「亡命」するかのどちらかでした.どういうわけか,特に優秀であった者は数学の研究をして,そうでなかった者は脱落するという,暗黙のメッセージが常にありました.
私がどうして「呪文」を嫌いになったのか教えましょう.それは,私があの「呪文」を聞くのは,数オリのメダリストを貶めている時だけだからです.
「呪文」は,アメリカがIMOで国別1位になっても大したことはないと言っています.「呪文」は,アレン・リューは研究で成功するまでは「優れた人類」の一員ではないと言っています.「呪文」は,毎年の数オリの運営に費やされる数え切れないほどの時間とエネルギーは,無駄だと言っています.「呪文」は,最終的に数学の研究からドロップアウトする学生は,「テストを受けるのが得意なだけ」だと言っています.「呪文」は,数オリを経験しなかった者も立派な研究者になれるのは「数オリが無益だから」とさえ言っています.
「呪文」は,研究の世界における「勧誘文句」なのです.
そして,これは有害なことだと思います.数オリの目的は,より多くの研究者を輩出することでは決してありませんでした.もしコンテストと研究が全く異なるものであるというのが事実であるならば,数オリ出身者が研究に進むことはほとんど期待されないはずですが,実際には多くが研究に進みます.確かに,過去にそうした学生の多くが,単に「数学」という名前をしていたからという理由で,全く関係のないことをしていると気付かずに研究に打ち込んできたかもしれません.しかし,研究をしなかったり,研究を試みた結果それが好きではないと判断した学生たちにとっては,非常に有害でしょう.なぜなら,彼らはもはや自分の能力に自信を持てなくなり,数学者になるには「才能が足りなかった」などと考えてしまうからです.
とはいえ,それこそ(ラムゼーの定理に関連して)$R(6,6)$ の計算にすべてを費やすためには,この種の問題解決能力と才能があまりにも必要なのです.AoPSの創設者であるリチャード・ルシクは,かつてこう語りました.
「学生たちが数学者にならないとがっかりするか」と聞かれたら,私はむしろ「もし全員が数学者になったらとてもがっかりするだろう」と答えます.私たちは,こうした複雑な問題を考えることができ,今まで見たこともないような本当に難しい問題を解決できる人が,どこにでも必要なのです.それは数学だけでなく,科学だけでなく,医学だけでもありません.何ならこうした人材を何人か議会に送り込むのも良いのではないでしょうか!
アカデミアは立派なキャリアですが,他にもたくさんの選択肢があります.研究コミュニティは,去り行く者を失敗者と非難するかもしれませんが,社会は彼らを歓迎するでしょう.
締めくくりに,私はスティーブン・カープによる大好きな(皮肉に富んだ)コメントを引用したいと思います.
数オリなんて,世の中の人類の九割以上が接点を持たないのに,それすら本当の数学ではないと言うのかい?そうだとしたら,ヴィ・ハート(※アメリカの数学系YouTuber)はすぐに動画作成をやめるべきだよ,なぜなら,あれは数学の姿を正確に伝えていないからね!
補遺
皆さんから長文で思慮深い反応をたくさんいただきました.ありがとうございます.考えさせられることがたくさんありました.議論すべきことが多いので,必ずしも完全な返答にはなっていませんが,提起されたいくつかの点に対して私の立場を紹介します.
最初に,私は「コンテストで上手くいかなかった人が,数学の研究で上手くいくはずがないと言っているのではない」という立場を明確にすべきだと提案されました.ですから,まずそれを言わせてください.
私のお気に入りの反応の一つは,実際には私の言説の構造もまた,かの議論のそれと一致しているということでした.
コンテストでメダルを獲得しながらも,「本物」の数学をやっていなかったことに罪悪感を覚えている学生は少なからずいるでしょう.一方で,コンテストで芳しい成績が遺せなかったからといって,子供が数学を専攻やキャリアとして追求することを止めさせる親もいます.これらの人々が「呪文」から受ける恩恵は大きいでしょう.ですので,私は確かに「呪文」の良い使用例があることを認めます.何も「呪文」は本質的に悪いものではありません.
この「呪文」に対するスタンスは,あなたがどのような集団に属しているかに依存します.しかし少なくとも,「コンテストと研究の成功度にはそれほど相関がない」という基本的な事実については,両者の意見が一致しているという点で興味深いです.
研究は「キャリア」であり,コンテストは「キャリア」ではないと指摘する人もいます.私はこれには納得できません.「キャリアである」というのは,社会における意義を測るのに良い指標ではないと思いますし,私は実際に存在すべきではないと思われる仕事の例を(言明こそしませんが)いくつか想像することが出来ます.また,数学者がキャリアのために何をしているのか一般の人たちが理解した暁には,数学者に払われるお金は減らされてしまうかもしれません.
コンテストや研究に「価値がある」かどうかについては,興味深い議論の余地があると思いますが,答えは一辺倒なものではないと思います.
何人かの人は,数オリのためにトレーニングを積むことは逆効果であると指摘しています.これは本当だと思います.確かに,Muirhead の不等式や Schur の不等式を学んだところで,恐らく他の何にも役立たないでしょう.しかし,これは同時にほとんどのものに当てはまるのではないでしょうか?ひょっとすると,「数オリがすべてではない」と主張したいのかもしれませんが,当然それはそれで納得できることです.
もうひとつのお気に入りの反応は,数オリで経験を積んだ者はエリート主義者だと指摘するものです.彼らは部外者を疎外しようとし(私も確かにそうでした),特段テクニカルでなく簡単な問題を過小評価しがちだと.
私は,こうした問題が数オリのコミュニティの真の問題であることを認めています.しかし,この反応は,今回論じたこととは関係のないことです.数オリのコミュニティの拡大に努めるのは(恩着せがましいとはいえ)良いことだと思いますが,大きな問題は「研究のためにコンテストではないことに時間を費やす」というパターンにはまってしまうことです.これが「呪文」の真の問題点です.
上述の通り「呪文」は「勧誘文句」として機能しており,IMOを制した学生の次なる真のテストは研究であると伝えています.しかし「黄金の尺度」をコンテストから研究に切り替えることは,世界をよりエゴイスティックなものにしているようにも感じられるのです.